一心寺の歩み(1) 妙江会の始まりは
- taizenyasumori
- 2020年9月19日
- 読了時間: 2分
「お年寄りが集う場所」として道場建立を考えたのが始まりでした。
中島妙江法尼が得度する前の事です。知人の老夫婦のご主人がお亡くなりになられたのですが、ご夫妻は借家だったため、大家さんに自宅で葬儀をしてはいけないと言われ困っていました。中島法尼は見かねて、近くのお寺さんにお葬式をして頂けないかと電話をかけましたが、どのお寺さんにも断わられました。その理由が、「檀家がどうの」、「お布施がいくら」、「いくらの祭壇を使う」などの理由だったそうです。「情けない、それでもお坊さんか」という気持ちになり、互助会を通して中島法尼のご自宅で葬儀を行いました。老夫婦の親族の方にも連絡をしましたが、「遠い」と言って誰も来ない有様でした。
中島法尼はそれがきっかけで、お年寄りが集まりみんなでお話したり、愚痴を言ったりしながらもお互いに繋がる事ができる場所があってもいいな、と思いました。しばらくして、中島法尼は道を求め、ご縁のあった先生の薦めもあり、昭和60年に最上稲荷教で得度しました。御年、48歳です。
得度の後もお仕事を続けていましたが、その人柄と霊力で相談事に来られる方が後を絶ちません。毎日朝から夜遅くまで働き詰めでした。当時、最上稲荷教では、得度をした僧侶は皆、21日間の荒行に入る事が一般的です。中島法尼はお勤めもあり、荒行するにはご高齢なので入行できませんでした。その代り、「坐行」と言い、法華経要品を真読(漢文読み)と訓読(漢文を国語読み)の両方を21日間上げました。お経を読み慣れていなかった中島法尼は当時、全部読み上げるのに6時間かかったそうです。大変な行です。

その頃、得意先に向い、児島線を妹尾に向って笹ヶ瀬川を渡り走行し出すと、「寅の年じゃ。山の裾じゃ。土地を買え」と毎回、その場所を通る度に、声が聞えてきます。宇野線が近づくと声が止まるのでなんだろうと思って従業員に話をすると、従業員が1枚のチラシを出してきました。妹尾の山の裾にある土地が売りに出ていたのです。早速見に行ってみると、「ここを買え」と山の主である毘沙門天様に言われました。ですが、その土地は、総面積250坪あり、50坪ずつの畑として売っていました。しかも、飛び飛びで売れていましたので、これでは何も出来ない、と思い「毘沙門様。ごめんなさい。ご縁がありませんでした」とお断りをしました。
次の日、会社に1本の電話。
「あの土地全部買って下さい。他のお客様は全員お断りしました」
そして、借金をし土地を購入し、小さいプレハブを建て、小さな道場、「妙江会」を発足させました。老夫婦から、不動産まで、皆、法華経に出て来る「変化の人」(仏様のお遣い)だったのですね。
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